湯浅の花街の歴史
幕末から昭和初期にかけての賑わいを偲んで
『山月』 昭和初期
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『湯浅の花街』
幕末ころに湯浅は**小大阪**と称せられた。それは単なる当時の文人・雅客の誇張した呼び名ではなかった。湯浅は田舎には珍しいほど殷賑(いんしん)な小商工業地であって、経済的に恵まれたところであっただけに、また花柳界も大いに活気を呈していた。したがって湯浅の花街は**絃歌(げんか)の街**として、その名は遠近に知られていた。菊池海荘の「浅浦歌」に
菊池海荘「浅浦歌」(原文)
千間讓戸醤如酒
別有紅粧引遊客
戸々春風多売酒
有魚潑潮女能舞
解釈:千の戸が開けば、醤油の香りは酒のように芳醇。春風そよぐ家々に、賑わい多き酒が売られ、美しく粧した遊女たちが、訪れる客を惹きつける。潮を浴びた魚のように活気ある中、女は艶やかに舞い踊る。
半浦漁蛮舟作家
新声唱起竹枝歌
楼々夜雨頃移花
誇道南中小浪華
解釈:船が花のように集う、港の半ばの漁師たち。新しい流行歌が、土着の歌として歌い起こり、建ち並ぶ家々に降る夜の雨の音が、しっとりと移りゆく――これこそが「小浪華(小さな大阪)」たる、湯浅(道南)の誇りだ!
と湯浅を**小浪華**と誇った湯浅は、酒の巷(ちまた)であって美人の街であった。
有田ではただ一つの海港たる湯浅は栖原・広の左右両翼地とともに、**醤油・清酒の醸造地**であった上に、**詩文学・俳句の盛んであった**ことから、いろいろの会合も少なくなかった。これら比較的に風流韻事を解する客が多かったので、芸妓にも絃歌にすぐれた者が多かった。その遺風は遠く明治時代まで続いた。
明治、大正にかけて花街として一面を形作っていたところは**久保里**であったが、昭和二年紀勢線の湯浅開通後は、駅付近の急激な発達とともに、**鳥の内新地**に新花街が出現したため、久保里は著しくさびれて、往時の面影がないにいたった。
芸妓の芸能と風格
また芸妓の芸能と風格とについてみるも、昔と今日との間には、格段の差のあることは免れない。昔は年少の芸妓が幼少時からけいこを重ねたものが、今日では労働基準法規の制約あるため、満十八歳以後でなくては、この職業に就くことができないところから、芸妓としての修練に不足のあるのもやむを得ない。とにかく芸能に携わる女性としてではなく、接客労働者として取り扱いを受けている以上、景気の好況、不況によって求職者の増減を見る現状である。
検番の変遷
湯浅に初めて芸妓検番の設置されたのは**明治三十九年**ころである、初めは**道町久保里**八○○番地にあったが、のち**鍛治町**六三六番地に移った。これは明治四十四年ころである。ついでまた久保里に復帰し、大正十二年現在の検番事務所を新築して、ここに移った。以上は湯浅検番の略沿革であるが、国鉄紀勢線の南進に伴なって、島の内新地付近の埋立地に新しく市街の発展が約束されたので、**大正十五年**別に**旭検番**が誕生した。当時湯浅検番に対して、一般に**新検**と呼んでいたものこれである。かくして**その後**、湯浅には旧新の両検番が対立するにいたった。
| 検番名 | 組合員数 | 芸妓数 |
|---|---|---|
| 湯浅検番(旧検) | 33 | 62 |
| 旭検番(新検) | 13 | 24 |
| (昭和二十九年十一月調) | ||