消えた産業

S42湯浅町誌より - 湯浅の歴史的産業について

製網業

湯浅の漁網製造は湯浅醤油とともに古い歴史をもっている。紀伊水道に面する沿海地には、古来漁業をもって生業とした住民が多い。

上代の漁業は釣漁が主であったと思われるが平安時代には網漁が行なわれた。明恵上人が青年時代に山城高雄をのがれて郷国紀伊に帰り、従兄藤原景元の領地栖原の西白上峰に草庵を結んで修行につとめたときに、やかましい漁人のかけ声に黙念を妨げらるるを憂えて、その東隣東白上に庵を移したことが、その法弟喜海の上人伝記にでているから、鎌倉時代のはじめには湯浅地方に網曳漁の行なわれていたことを想わせる。しかし湯浅の漁網の由来については、文献的資料がない。

降りて文保頃(131718)には巳に結網の法を傳へたりしものの如く、嘉暦の頃(132628)は岩佐網と稱して、附近の漁場に賣り出したりと云ふ

大正四年発行の『湯浅町郷土誌』には、上記のように記している。これとても土地の伝承によったものと思われるが、文保、嘉暦は鎌倉時代末花園後醍醐二天皇の年号であるから、同書にあるごとく岩佐網の名称で商品化していたとは考えにくいにしても、漁網の製造法が湯浅地方に行なわれていたことは推測できる。

のちくだって江戸時代に入って、紀伊国主徳川頼宣が地方の産業を保護奨励したため、湯浅の製網に対しても、正保四年(1647)とくに保護を与えられ、但馬、安芸の諸地方から純良な苧麻を移入して、漁網の製造に便を得た。

湯浅漁網の仕向先は主として紀州の各漁業地、和泉、摂津、備後、安芸、長門、九州の肥前、豊前、四国、伊勢、尾張、房総地方で、その販路は相当広域に拡がっていた。

明治二十八年ごろから綿糸網の製造が開始され、明治三十五年にいたって編網機械を据え付ける工場が設立されて、製網業は急速の発達を見た。大正元年(1912)にはこの種の工場は湯浅、広で、6工場、機械数280台を数えるにいたった。

大正七年における各仕向け地への漁網移出の数量を見ると、その主なる地は左のとおりである。

地域 数量(尋)
長崎 50,000
唐津 20,000
広島 18,000
大阪 14,000
呼子 12,900
熱田 7,200
鞆津 7,000
塩津 7,000
田辺 7,000
串本 7,000

現在湯浅における製網工場は左のごとくである。

池田漁網
所在地: 湯浅中町
創立: 昭和27年1月
従業員: 35人
江川製網
所在地: 湯浅新屋敷
創立: 昭和25年
従業員: 13人

製傘業

江戸時代のむかしは、調査資料のない今日、製傘状況をしることはできないが、明治末期から大正にかけて、なお傘の製造業者の戸数7軒の残存を見た。

当時の製造数量はつぎのごとく

生産量(本)
明治40年 10,000
明治41年 16,700
明治42年 6,900
明治43年 14,100
明治44年 12,150
平均 12,000

昭和十二年ごろ統制強化されるまでは継続された。昭和十年には16,800本、十二年には17,000本の製造をみたのであるから、明治、大正、昭和にかけて、年間生産10,000本を下ることはなかった。しかるに昭和十二年の支那事変後は、資材難から、その製造が激減して、ついに生産を中止するにいたり、海南市の製品を販売する業者一戸を残すのみとなった。

ろうそく、びんつけ油の製造

箕島の田中善吉が九州から櫨の実を持ち帰って以来、はじめは有田・日高二郡に、その播植をしたが、江戸時代中ごろには、その栽植は紀伊全部にひろがった。

宝暦六年(1756)有田郡宮原南の人新七は、燈油の搾取業をはじめ、同九年には箕島の庄屋次郎兵衛製蠟業を開始したが、安永、天保のころには紀州ろうそくの名が世にあらわれた。その主産地は湯浅と箕島とであった。

ろうそく、びんつけ油二品の明治末期における製造高はつぎのごとくである。

ろうそく(斤) びんつけ油(斤)
明治40年 1,000 2,000
明治41年 8,566 5,500
明治42年 7,200 5,500
明治43年 12,000 4,950
明治44年 3,700 3,400

しかるにこれらの製造は、いずれも規模きわめて小さく、ことに時勢の変化は、日本ろうそく、びんつけ油の需用、ほとんど跡をたつにいったたので、湯浅のこれらの製造も、ついに絶滅してしまった。

藁加工業

北栄では江戸時代より藁加工業が盛んで、主に縄、こも、草履を生産していた。とくに縄および菰は良質で、縄は蜜柑の荷造り用とし、こもは酒、醤油の包装用または蜜柑の木の防寒用に、近隣はもちろん、有田市(山田原、糸我、新堂)辺りまで売りさばいていたとのことである。

いずれも家内工業(手工業)で相当長い間続けられてきたが、時代の進展にともない機械化され、いつの間にか絶えてしまった。

栖原三宝蜜柑の由来

三宝蜜柑は本県では海草郡 日高郡 西牟婁郡でも、多く産出するが、それらに比べて、有田郡は産額においても、断然他郡を押さえているが、ことに栖原産はその芳味において、他地産の追随を許さないものがある。

三宝蜜柑の世に知られるようになったのは、江戸時代文政年間(181829)である。まったく偶然的に実生でできた変種であった。和歌山藩士野中為之助の邸内に発生したもので、あまりに珍しかったため、藩主徳川治宝に献上したところ、非常に珍重がられて、「三宝蜜柑」の名称をつけて、藩外移出を禁止された。

明治十三年栖原の千川安松、田口の大江城平より三宝蜜柑の穂を得て、栖原に移植したのが、栖原三宝蜜柑のはじめである。そして地味の適良と栽培技術の優秀とによって、ここに全国産出の40%を占めて、芳醇ですぐれた三宝蜜柑の産出を見るにいたったのである。

ケシの栽培

有田郡内におけるケシの栽培の最もさかんでったのは昭和十年前後である。当時有田郡の阿片の生産類は、全国の90%に達し、わが国第一と称せられた。

そのころは広川平地より山田川流域、有田川南岸にかけての平野は、白一色のケシの花で、旅行く人々の眼を驚かしたほど、紀南の特異な晩春の風物であった。しかるに敗戦の結果、その栽培が禁止せられたので、農家は財政上にも寂寞を感じた。

その最盛時の昭和十一年度におけるケシの栽培反別をみると、

地域 作付反別
有田郡 1,0318
日高郡 3976
海草郡 401
那賀郡 333
和歌山市 122
西牟婁郡 102
伊都郡 55
東牟婁郡 3

その後、再栽培の許可があったが、農業経済および病害のうえより、かねての盛況をみることはできない。