AIカラー化で蘇った昔『戦前』の風景を、地元ならではの思い込み解説でお届けします。
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正面は端崎の鼻ですね。広橋も写っています。高城あたりから撮影したのでしょうか? (以下原文) 写真中央を流れているのは広川である。道路は国道42号線になる前の県道。右手は湯浅町のまちなみで、左は天洲松原と広川町。むこうにひろがっているのは、湯浅湾である。
『広橋』 晴耕雨読?? これも風情ありですね!! 以下原文です。 広橋風景 【有田郡誌】に広橋の事を次のように書いている。『広橋、広川に架す。長さ三十軒、幅二軒。湯浅と広村を連結す。かつ熊野街道に当たるをもって車馬の往来頻繁にして、士女絡繹として絶えず。・・・』とある。昭和10年に起上して、11年の六月にコンクリート橋になったが、それまで木造であったので、ほぼ10年ごとに架け替えられた。写真は大正12.13年頃のものであり、今はまったく見られない広橋風景である。
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入江にある『広屋旅館』です。上の広橋の写真の右側に写っている和風建築です。
大正時代 座敷から見た入江(弁財天)と旅館正面・・ 人力車が粋ですね
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瀞峡だけではありません。有田川上流の清水(しみず)は良質な材木の産地であったことを忘れてはいけません。湯浅党が文覚の求めに応じて神護寺や東寺、東大寺の再建に紀州材を送っています。また、阿弖河庄(清水)の取り合いで寂楽寺と高野山が揉めたのは有名な話です。
【清水町木材流出の景】原文・・・・ 明治九年頃、有田川の上流清水町あたりで流路を妨げる岩石の破砕を行って、木材が上流で組まれるようになった。昭和の中ごろまで、筏師によって木材が運ばれたが、現在はもっぼらトラック便に替ってしまった。
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『耐久中学校』耐久高校になる前ですね。説明は省略します。「いなむらの火の館」へお越しください。撮影場所によって海の稜線が変わる様子が、私にとって興味深いです。
有田高等女学校は現在の耐久高校の場所に有ったとのことです。後ろに湯浅醤油株式会社の煙突が写っています。写真は綺麗すぎますが、元の写真はFBのコメント欄へアップしています。(以下原文です。)
『有田高等女学校全景』
和歌山県立有田高等女学校は、当初、有田郡立高等女学校として、大正八年(一九一九)五月、湯浅字高岸において第一期工事竣成を待って開校された。翌年の新学年には、教育科および園芸科を加設し、翌一〇年四月、第二期工事を竣成し、講堂、作法室、割烹室、洗濯室、寄宿室など全工事が完成した。一一年四月、県の移管となって、和歌山県立有田高等女学校と改称する。戦後学制改革にこの有田高女と広に所在の県立耐久中学校と合併して県立耐久高等学校となったとき、有田高女の場所がそれに充当され今日に至っている。しかし、校舎その他の建造物は、その後改築され、昔とまったく景観を異にしている。
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これは、明治末期の『湯浅湊』の風景です。 このように古い写真でもカラー写真に生成すると、私も目覚ましい技術だと感じます。 天洲松原が壮観ですね。伝馬船の数の多さにも驚かされます。
旧湯浅漁協です。覚えていますね。昭和50年頃まで「カネ七」さんの前にあったでしょうか。
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熊井の大池です。現在のなぎの里球場の北になりますね。 子供時代は有田振興局もなく、久沓の若者広場もなく、もちろん湯浅城も霊園も球場もありませんでした。竹藪があって、まるでベールに包まれているようでしたね。 以下原文が面白いです。 『熊井坂部池(大池)』 吉備町熊井にある大池である。この池には昔から池の主の白蛇が棲んでいるといわれている。池の水をぬいてしまうと、たたりがあるといういい伝えがある。大変景色がいいが、こういう伝説のため、だれも近づかない。
坂部池
種概用溜池としての坂部池は、湯浅町の農家にとっては重要な役割を果たしている。
その利用度および池溝の規模の大なる点において、町内の灌漑用溜池中第一位である。江戸時代には坂部池用水掛千五百石と称し、
この池およびその用水溝の維持と修理とには、
常に周到な注意が払われてきた。この池の主なる水源は山田川であって、山田の落合井関より導入している。坂部池の砂留や用水溝の砂浚え等については、人夫の割り当てを定めて、時々一斉に実施されたが、享和二年(一八〇二)の定めには、
一、山田より坂部池まで 砂埋掘除 九人
一、坂部池中谷 砂留重上げ 十三人
一、坂部池東谷 砂留重上げ 十三人
一、坂部池西谷 砂留重上げ 十四人
一、坂部池用水溝桶尻より表城坂まで 砂埋堀除洩留尤も念人 二十五人
一、坂部池用水溝表城坂より野下まで 所々洩留埋堀除け 二十人
一、表城坂上山手 砂留築立 十一人
とあって用水溝は従来村受普請として修理された。亨和二年正月の坂部池用水溝の修理には、長さ四尺末口二寸の松杭木二百四十五本と、三尺縄締の柴十五束を使用した記録が残っている。
最近に行なわれた修理中 最も大規模なものは、昭和二十四年より二十五年にかけての工事であった。導水路全延長1100メートル中に、サイホン施設二カ所、改良井堰四ヵ所、農道新設四カ所、水門一カ所、橋梁架設五ヵ所があって、総工費約百万円を要した。。
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(原文『有田川のみかん船』 紀州有田は、江戸時代中期以降、みかんの産地として有名になりました。江戸や大坂に出荷され、有田みかんの名が広まりました。汽車や馬力車、トラックのない時代、有田みかんの運搬は、もっぱら川船を利用した。この川船を平田舟といい、みかんを満載して、積出し港である箕島の北湊まで運んだ。
明治20年、山田原の上山英一郎がミカンの輸出を試みたことがきっかけで、輸出が始まりました。 翌明治22年には、宮原、藤並、石垣の各地域から合計466箱のミカンがアメリカに輸出されました。 出荷は有田川河口の北湊から行われ、ニューヨーク号という船で神戸港を経由して運ばれました。
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騎馬武者は秋大祭の様子です。右に写るのは現存する湯浅最古の建物『玉井醤』(中町)です。この建物の保存を望むばかりです。
北鍛冶町だと思います。 原画の旗と山の稜線より・・・ 格好良いですね。「ちょんま」(町馬)は流鏑馬の名残でしょうか。
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『山家町』大宮通りの市間呉服店前です。 改修前は道幅が狭かったのが一目瞭然ですね。
『山家町』今の大宮通りの道路改修工事の写真ですね。 左が市間呉服店です。