AIで甦る湯浅の記憶Ⅲ:醤油・古墳・学校—失われた風景と人々の営み

AIカラー化で蘇った昔『戦前』の風景を、地元ならではの思い込み解説でお届けします。

【筆者箸休め】

昔の写真をGeminiにカラー化してもらいました。臨場感(リアリティー)が増し、楽しい仕上がりになりました。**戦前の写真がほとんど**です。

⑳ 湯浅醤油株式会社

湯浅醤油株式会社 湯浅醤油株式会社 湯浅醤油株式会社

写真:yuasashoi.jpg

江戸時代に紀州藩の保護政策で栄えた醤油業も、大正時代には個人経営では先細り、不況の時代を迎えました。そのため、大正11年に久保、赤桐、玄後といった醸造家らが出資し、生産力と販売量を増やすために県下一の工場を「馬止」(耐久高校の西あたりでしょうか?)に設立しました。マークは亀甲(キッコウ)ですね。亀甲王!うまくいっていたら、世界のキッコーオーになっていたかもしれませんね。

㉑ 『天神山古墳』

天神山古墳 天神山古墳 天神山古墳 天神山古墳

写真:tenjin.jpg

『天神山古墳』について、いつも「もったいない」と感じます。当時、橿原考古学研究所のような機関があれば大発見があったかもしれません。宅地造成を急ぎ、ずさんな工事が行われたのでしょう。石棺が工事に使われているほどですから。町史や『みんなの湯浅』『湯浅ばなし』などを見ても、これ以上のことは記載されていませんでした。

湯浅町誌から 【この小丘はその形が山陵に酷似して、丘陵そのままを円塚として、頂上に古墳を造っていた。伝説によると、 昔はこの丘の周囲に堀があって、その内に足を踏み入れることがなかったと言う。後丘の南面に天神神社を祭って明治におよんだ。堀は明治維新前にわずかに西の一面に片影を残していたが、それも今は耕地と変わった。 明治三十五年(一九〇二) 三月天神社の神屋修理のため、神殿後方の丘頂から土を採取した際、偶然発掘したのが、石棺の一部であった。大正四年(一九一五) 出版の湯浅町郷土誌にその当時の出土品を次のごとく載せている。 甎一、刀剣一(腐蝕してほとんど火箸のごとくなったもの) 瓦様のもの 一(厚さ約二寸・幅約一尺五寸・長さ約二尺) その他大雨後、ここで発見された副葬品は勾玉・金環・管玉など数種である。なお郡内における他の古墳に比べて異なる特徴は、古墳の周囲に植埴輪の並列していることである。埴輪は丘頂の古墳を取り巻いて、三段に並んでいるが、これまで発見されたものは、無数の埴輪円筒の破片と、埴輪土偶の左腕、埴輪家形などである。これなどの出土品から見ると、上代における地方豪族の古墳であろうと推定されるが、いわゆる佩玉時代の古墳で、 およそ一千四百年前のものであろう。 この古墳の石棺に使用された緑泥片岩(俗称青石)の板石は、別所の各所で、溝渠の石橋として使用されている。その第一は勝楽寺参道口溝渠の上にかけられた石で、長さ二米、幅一米である。第二はその東方一○○米ばかりのところにあって、石橋に使用されている。長さ二米、幅九○種である。第三は第一の西方約四五米のところにかけられた石橋で、表面は全部コンクリートで舗装されてあるため、下から見上げなければ、それとは判明しがたい。大きさは第一の石とは大差がない 天神山東方の丘陵群を小字地名を塚原といっている。(塚原と称する所は、多くは古墳群の所在地である)】

㉒板尾の三大神社祭

清水の祭り

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色合いについてはご容赦ください。清水板尾の三面獅子(そう呼ばれているかは不明ですが)を紹介します。獅子に四人が入る点は、湯浅の獅子舞と異なりますね。三面の起源などを調べましたが、はっきりしません。もしご存知の方がいれば教えてください。獅子頭には「諏訪神社」(御射山【弊山】湯浅鍛冶町653番地にあった)とも書かれています。(以下原文です。)

板尾の三大神社祭 清水町板尾は、旧安諦村板尾である。この地方三大神社の祭りを一般に安諦の祭りと呼んでいる。獅子・鬼・鰐という三種が一つのセットをなして演じる舞がみものとされている。この獅子舞は秋の祭礼に行われる。

㉓天神山古墳想像図

天神山古墳想像図 天神山古墳想像図 天神山古墳想像図 天神山古墳想像図

写真:kofun.png

遊びでイメージを合成してみました。視覚的な情報として、湯浅に古墳があったらしいということを頭の片隅に置いていただければ幸いです。

㉔昭和30年代 吉備と金屋....

平松酒造 金屋商店街

写真:hiramatu.png

湯浅から話題が逸れますが、ご容赦ください。吉備下津野にある平松酒造さん『金葵』の仕込みの様子です。
次の写真は旧金屋橋を超えてすぐの『川合昭盛堂』のあたりで撮影されました。

㉕ 湯浅のアングルを変えて・・大仙堀が正面

アングル

写真:yuasa3.jpg

山田川河口と浜の様子が見やすいです。拡大して見てください。

㉖ 学校 

山田小学校 湯浅小学校 湯浅小学校

写真:yamada.jpg

今はなき学校の写真です。一番上は山田小学校です。明治期の建物なので、当時保存の話が出ていたと記憶していますが、残念ながらなくなってしまいました。次は、私も通った湯浅小学校の新築当時の全景を線路の向こうから撮影したものです。その次は、湯浅中学校です。東南道にあった当時の様子ですね。

㉗ 田栖川小学校に中学校 

田栖川

写真:tashukawa.png

木造の建物ですね。場所は今と変わっていないのでしょうか?もしそうだとすれば、道路右側の大きな家屋は『栖原角兵衛』の屋敷ですね。古い屋敷の写真もアップしておきます。

㉘『栖原角兵衛』の屋敷

『栖原角兵衛』の屋敷 菊池

写真:yamaga.jpg

『栖原角兵衛』の屋敷も個人所有ですが保存の話が出ています。

下は菊池海荘屋敷跡の鹿島祠です。現在 土塀が残っています。詳しくは管理者雑記シリーズに記載しています。又読んでいただいたら嬉しい限りです。尚、須原屋茂兵衛の屋敷跡は確認できておりません。

㉙60年前の神社仏閣の写真

深専寺 勝楽寺 福蔵寺 顯國神社 施無畏寺 国津神社 三面獅子 騎馬武者 満願寺

写真:jinsenji.png

一旦一区切りとしまして湯浅の60年前ぐらい前の神社シリーズあげておきます。今は当時から建替や改修されてると思いますので貴重な写真が沢山ご覧いただけるかと!! 騎馬武者(ちょっと格好よくなり過ぎ)と三面獅子は祭りも近いということで宜しくです。 深専寺 勝楽寺 福蔵寺 顕国神社 施無畏寺 国津神社 三面獅子 駆馬 満願寺

三面獅子について
場所は武内商店『かしわ』は大宮通りかな??違うか? 三面獅子の起こりは『諏訪神社』の北王城・南王城からか?・・・以下
【顯國神社の三面獅子は、湯浅町民の崇 敬を集める当社の祭礼において欠く事のできない存在である。当社の三面獅子は、毎年7月18日の若宮祭(夏祭)、 10月18日の例祭(秋祭・湯浅祭)および大晦日に顯國神社を中心に奉納される。  三面獅子がいつ頃から行われているかは不明であるが、江戸中期には湯浅中町に鎮座した諏訪神社を崇敬した湯浅の北王城・南王城(旧地名)の若衆によって 受け継がれていた。  また、この獅子が顯國神社の祭礼に参加したことは、嘉永4年(1851)の『紀伊国名所図会続編』等でも明らか である。  三面獅子は、鼻高面のオニ1人、鬼面のワニ1人、獅子2人、太鼓1人、介添えの世話役数人によって構成され、顯 國神社の夏祭及び秋祭において神輿を先導し、渡御の道行きを祓い清める役割を担う。その所作は、締太鼓のゆったりとしたテンポにあわせ、鉾を持ったオニと ワニが踊りながら魔物である獅子を鎮める古風な所作を残す。  またその芸態は、南隣の広川町・広八幡神社の「広八幡の田楽」(国選択無形民俗文化財)と、北部の有田川流域に広く分布する獅子舞との中間的な要素を示 し、中世の獅子舞の様式をとどめている。その意味で、顯國神社の三面獅子は、当地域の獅子の芸能の変遷と地域的展開を考える上で貴重な存在である。】