南紀(現在の中紀)の商工業先進地としての記憶 - 消えた産業の記録
今回は湯浅の消えた産業を紹介します。他にも色々藤白墨などあるのですが・・
特に製網業については醤油と双璧をなし深堀して又紹介します。
湯浅の漁網製造は、湯浅醤油とともに古い歴史をもっています。紀伊水道に面する沿海地には、古来漁業をもって生業とした住民が多いです。
湯浅地方に網曳漁が行われていたことが記録から推測されます。
結網の法が伝えられ、岩佐網として近隣漁場に販売され始めました。
紀伊国主徳川頼宣の保護政策により、但馬、安芸から苧麻を移入し製造が発展。
綿糸網の製造が開始され、機械化が進みました。
湯浅と広で6工場、機械数280台に達しました。
地域 | 数量(尋) |
---|---|
長崎 | 50,000 |
唐津 | 20,000 |
広島 | 18,000 |
大阪 | 14,000 |
呼子 | 12,900 |
所在地: 湯浅中町
創立: 昭和27年1月
従業員: 35人
本社: 和歌山市
所在地: 湯浅新屋敷
創立: 昭和25年
従業員: 13人
本社: 有田町男浦
明治末期から大正にかけて、7軒の製傘業者が残存していました。年間生産量は約12,000本で、昭和12年ごろまで継続されましたが、資材難から生産を中止しました。
年 | 生産量(本) |
---|---|
明治40年 | 10,000 |
明治41年 | 16,700 |
明治42年 | 6,900 |
明治43年 | 14,100 |
明治44年 | 12,150 |
宝暦6年(1756)に始まったこれらの製造業は、明治8年には和歌山県でろうそく60万斤、びんつけ油25万斤を生産するまでに至りました。しかし、時勢の変化とともに需要が減り、湯浅での製造はなくなりました。
年 | ろうそく(斤) | びんつけ油(斤) |
---|---|---|
明治40年 | 1,000 | 2,000 |
明治41年 | 8,566 | 5,500 |
明治42年 | 7,200 | 5,500 |
明治43年 | 12,000 | 4,950 |
明治44年 | 3,700 | 3,400 |
湯浅では江戸時代より藁加工業が盛んで、主に縄、こも、草履を生産していました。縄は蜜柑の荷造り用に、こもは酒、醤油の包装用または蜜柑の木の防寒用に販売されていました。
家内工業として長く続けられてきましたが、時代の進展にともない機械化され、いつの間にか絶えてしまいました。
三宝蜜柑は文政年間(1818-1829)に和歌山藩士野中為之助の邸内で偶然発生した実生の変種でした。藩主徳川治宝に献上され、「三宝蜜柑」の名称を与えられました。
当初は藩外移出が禁止され、一般人の栽植も許可されませんでしたが、明治13年に栖原の千川安松、田口の大江城平より穂を得て移植され、栖原三宝蜜柑が始まりました。
地味の適良と栽培技術の優秀さから、全国産出の4割を占めるまでになりました。
有田郡内におけるケシ栽培は昭和10年前後が最盛期で、全国の9割を生産し、「わが国第一位」と称されました。湯浅町は常に郡内第二位または三位を占めていました。
地域 | 作付反別 |
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有田郡 | 1031町8反 |
日高郡 | 397町6反 |
海草郡 | 40町1反 |
那賀郡 | 33町3反 |
和歌山市 | 12町2反 |
敗戦後、栽培が禁止されましたが、その後再栽培の許可がありました。しかし、農業経済および病害のうえより、かねての盛況をみることはできませんでした。