湯浅町の産業歴史

南紀(現在の中紀)の商工業先進地としての記憶 - 消えた産業の記録

今回は湯浅の消えた産業を紹介します。他にも色々藤白墨などあるのですが・・

特に製網業については醤油と双璧をなし深堀して又紹介します。

製網業

湯浅の漁網製造は、湯浅醤油とともに古い歴史をもっています。紀伊水道に面する沿海地には、古来漁業をもって生業とした住民が多いです。

鎌倉時代初期

湯浅地方に網曳漁が行われていたことが記録から推測されます。

文保・嘉暦年間 (1317-1328)

結網の法が伝えられ、岩佐網として近隣漁場に販売され始めました。

正保4年 (1647)

紀伊国主徳川頼宣の保護政策により、但馬、安芸から苧麻を移入し製造が発展。

明治28年 (1895) 頃

綿糸網の製造が開始され、機械化が進みました。

大正元年 (1912)

湯浅と広で6工場、機械数280台に達しました。

主要販売先 (大正7年)

地域 数量(尋)
長崎 50,000
唐津 20,000
広島 18,000
大阪 14,000
呼子 12,900

現存する工場(S42年調査当時)

池田漁網株式会社 湯浅工場

所在地: 湯浅中町

創立: 昭和27年1月

従業員: 35人

本社: 和歌山市

江川製網株式会社 湯浅工場

所在地: 湯浅新屋敷

創立: 昭和25年

従業員: 13人

本社: 有田町男浦

製傘業

明治末期から大正にかけて、7軒の製傘業者が残存していました。年間生産量は約12,000本で、昭和12年ごろまで継続されましたが、資材難から生産を中止しました。

明治期の生産量

生産量(本)
明治40年 10,000
明治41年 16,700
明治42年 6,900
明治43年 14,100
明治44年 12,150

ろうそく・びんつけ油の製造

宝暦6年(1756)に始まったこれらの製造業は、明治8年には和歌山県でろうそく60万斤、びんつけ油25万斤を生産するまでに至りました。しかし、時勢の変化とともに需要が減り、湯浅での製造はなくなりました。

明治末期の生産高

ろうそく(斤) びんつけ油(斤)
明治40年 1,000 2,000
明治41年 8,566 5,500
明治42年 7,200 5,500
明治43年 12,000 4,950
明治44年 3,700 3,400

藁加工業

湯浅では江戸時代より藁加工業が盛んで、主に縄、こも、草履を生産していました。縄は蜜柑の荷造り用に、こもは酒、醤油の包装用または蜜柑の木の防寒用に販売されていました。

家内工業として長く続けられてきましたが、時代の進展にともない機械化され、いつの間にか絶えてしまいました。

栖原三宝蜜柑の由来

三宝蜜柑は文政年間(1818-1829)に和歌山藩士野中為之助の邸内で偶然発生した実生の変種でした。藩主徳川治宝に献上され、「三宝蜜柑」の名称を与えられました。

当初は藩外移出が禁止され、一般人の栽植も許可されませんでしたが、明治13年に栖原の千川安松、田口の大江城平より穂を得て移植され、栖原三宝蜜柑が始まりました。

地味の適良と栽培技術の優秀さから、全国産出の4割を占めるまでになりました。

ケシの栽培

有田郡内におけるケシ栽培は昭和10年前後が最盛期で、全国の9割を生産し、「わが国第一位」と称されました。湯浅町は常に郡内第二位または三位を占めていました。

昭和11年度 栽培反別

地域 作付反別
有田郡 1031町8反
日高郡 397町6反
海草郡 40町1反
那賀郡 33町3反
和歌山市 12町2反

敗戦後、栽培が禁止されましたが、その後再栽培の許可がありました。しかし、農業経済および病害のうえより、かねての盛況をみることはできませんでした。