大正7年 S42湯浅町誌の米騒動より
大正三年来の第一次世界大戦は、約二年間にわたって、わが国に輸出入杜絶による不景気を招来したが、大正五年ころから交戦諸国の物資需要によって景気が回復し、いわゆる成金時代を現出し、一般物価の騰貴により、米また暴騰を続け、大正六年初めに一石十六円三十七銭であったものが、年末には二十三円八十六銭に上り、殊に同年不作の影響もあって、七年に入っても更に米価の上昇をつづけ、七月下旬には三十円を突破した。ついに七月末より八月初にかけ、各地取引所の立会停止が続出し、加うるに産米地からの出回りは減少する一方で、八月七日には白米小売相場はついに一升五十銭と騰するにいたった。
寺内内閣は大正六年すでに米買占戒告、外米管理実施、暴利取締令などを連発して、米価の調節を講じたにかかわらず、七年七月にいたり米の買い占めが全国的になったため、八月五日 産米県富山県滑川町(現滑川市)の漁夫婦人約五十人が、土地の地主富豪に米の廉売を懇願し回るや、富山県各地に米廉売の示威運動が起こり、九日にいたり平穏に復したが、この報一たび世間に伝わるや、たちまちに全国的の米騒動を激発した。すなわち八月九日には湯浅町を始めとして、愛知県、広島県に、十日には京都府に波及し、ついに一道二十四府県一〇三市町村に広がり、出兵鎮定を要したもの四十二カ所を数えるにいたった。
この米騒動たるや、その目的は米の廉売要求であったが、その勢いの激するところ、ついに資本家の攻撃となり、米穀の掠奪となり、一般店舗の破壊となり、政府は軍隊を出動し、新聞記事差し止めを指令し、はなはだしきは集団的外出を禁止する所あるにいたった。
これも米穀の廉売、救済資金の調達などの臨時措置によって、民心の緩和を計り、ようやく内乱状態を鎮静することを得たが、この騒動を主因として、九月二日寺内内閣は総辞職したのである。
富山県に米騒動起こるや、たちまち和歌山 愛知 広島の諸県に波及したが、我県下でトップを切ったのが湯浅町であった。これより先き日々米価の昴騰相続く、米穀商人に対する一般町民の怨嗟の声がようやく高くなったため、業者ら町長平木秀雄と協議して、中国米(支那米)を移入し、その緩和を計画したが、富山県に勃発した騒擾の報一たび伝わるや、八月九日夜数百の群衆福蔵寺前に蝟集し、警察官の制止を排して、勢いのおもむくところついに米穀商人の店舗を襲うにいたった。幸いにして大事にいたらずして鎮静したが、第一次世界大戦中の一齣であった。