勝楽寺旧本堂と文化財

勝楽寺の旧本堂は、1930年に湯浅町最大の寺院である深専寺の有陽軒から移築された建物で、現在は庫裏(くり)として使用されている。

かつてこの堂内には10体の仏像が安置されていた。薬師如来坐像、四天王立像(二体ずつ)、阿弥陀如来坐像はいずれも平安後期に遡る作例であり、特に阿弥陀像は半丈六の大作で、薬師像とともに定朝様の特徴を示す。

未指定の聖観音立像・十一面観音立像も同時期の作と考えられる。また鎌倉前期の地蔵菩薩坐像は南都慶派仏師の手による巨像で、釈迦如来坐像も慶派による優品である。

薬師如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩、釈迦如来の諸像はいずれも本尊に匹敵する仏像であり、現在は薬師如来像を本尊としている。しかし少なくとも中世において、これらはいずれも勝楽寺の本尊ではなかった。

勝楽寺の本堂と本尊および脇侍は、慶長三年(一五九八)、京都山科の醍醐寺に運び取られている。『醍醐寺新要録』にその記事が見えるが、移設の経過は『義演准后日記』により詳しく記録されている。

豊臣秀吉の命を受けた木食応其の指揮により、「紀州湯浅ノ堂」は解体され、海路山科へと運搬された。「本尊」と「四天二体」も同時に移送されたが、ここでは「湯浅ノ堂」としか記されておらず、具体的な寺名が挙げられていないため注釈を要する。

江戸後期に紀州藩が編纂した地誌『紀伊続風土記』は、これを満願寺の本堂とする説を採用し、多くの書物もこれに従っている。しかし満願寺は寛文十二年(一六六三)に宥範なる山伏が再興したものであり、それ以前の史料的所見はない。加えて現在の満願寺の立地には、中世に広大な寺地を確保できる条件も存在しない。

これに対し勝楽寺は、『紀伊続風土記』において満願寺の奥院とされるにすぎないが、下阿田木神社蔵『五部大蔵経』の奥書から、鎌倉時代にはこの地域の中核寺院として経典を集積していたことが確認される。先述のとおり平安後期以来の仏像群を伝えており、中世に満願寺が存在したとすれば、それは勝楽寺の塔頭もしくは子院に位置づけられるべきである。

『紀伊続風土記』の満願寺に関する記述は、勝楽寺の伝承と近隣寺院の伝承が混同されたものと考えられる。

「醍醐寺新要録」に見える木食応其による移築の対象は、勝楽寺の本堂および仏像であり、現在、醍醐寺(金堂)およびその本尊として現存する。金堂は正面七間・側面五間、入母屋造の巨大な仏堂で、国宝に指定されている。建築史家山岸常人は「10世紀の五重塔に匹敵する仏堂」と評価し、移築時に改修が施されたことを指摘している。

本尊薬師如来坐像は鎌倉彫刻で、素地に切金文様を施した等身大の像であり、南都仏師の作と考えられる。両脇侍の日光・月光菩薩像も同時期の作で重要文化財に指定されている。「四天」は薬師像に随従する四天王立像を指し、そのうち広目天・多聞天の二体が湯浅から移されたとみられる。

なお広川町の法蔵寺鐘楼は、勝楽寺において建立され、元禄八年(一六九五)に広八幡神社へ、さらに明治五年(一八七二)に法蔵寺に移築された室町中期の建造物で、重要文化財に指定されている。また広島市の三滝寺多宝塔、醍醐寺西大門についても、勝楽寺から移築されたとの伝承がある。

現存する建造物や仏像から復元される中世白方山勝楽寺の伽藍構成としては、まず現醍醐寺金堂が本堂として建ち、その内陣に薬師三尊像および四天王像(二体)が安置されていた。そしてその周囲に、現在勝楽寺に祀られる薬師・阿弥陀・地蔵・釈迦の諸像を本尊とする堂宇や塔頭が建ち並んでいたと考えられる。

注釈 — 勝楽寺関連文化財一覧

番号 所蔵寺 住所 分類 名称 年代 備考
1勝楽寺湯浅町別所彫刻薬師如来坐像平安後期高さ102cm、定朝様
彫刻阿弥陀如来坐像平安後期高さ223cm、定朝様の半丈六仏
彫刻釈迦如来坐像鎌倉前期高さ100cm、慶派仏師作とみられる
彫刻地蔵菩薩坐像鎌倉前期高さ26cm、県下最大級
彫刻四天王立像平安後期高さ95〜106cm
彫刻聖観音立像平安後期高さ106cm
彫刻十一面観音立像平安後期高さ83cm
2醍醐寺京都市山科区建造物金堂平安後期国宝、1598年湯浅から移築
建造物西大門桃山期重文、湯浅から移築と伝承
彫刻薬師三尊像鎌倉前期重文、金堂とともに湯浅から移された
彫刻四天王立像(うち2体)鎌倉前期高さ200cm、湯浅から移されたと推定
3法蔵寺広川町上中野建造物鐘楼室町中期重文、1695年勝楽寺より移築
参考三滝寺広島市西区建造物多宝塔1526年県指定、勝楽寺において建立
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