(西邑幸氏所蔵より抜粋・掲載)
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湯浅町の開業医酒井真之丞は、わが国柑橘類の落果の廃棄されるものの莫大なるを見て、これが利用の途を考究せんとこころざし、大正元年(一九一二)以来医業のかたわら、柑橘加工の研究に従事し、ついにわが国最初のクエン酸製造工場を当町の北端に設立した。その不撓の化学的研究は、夏蜜柑からクエン酸の外に、オレンジ油、レモン油、ペクチンその他の香料薬品類十数種の製造に成功し、大正三年酒井製薬合名会社を起した。その後山口県、愛媛県などの夏蜜柑主産地に分工場を設置して、これらの製造に当ったが、大東亜戦争中大阪三榮化学工業株式会社に合併した。 当工場ではまた梅実によるクエン酸の製造アミノ酸の研究による化学醤油の改良などによって、当町産業界に大きな業績を収めた。昭和七、八年ごろより特許および実用新案数件を獲得してこれが実施をした。 クエン酸の需用激増につれて、内地原料のみに依存することができないため、近年さらに原料を欧州から輸入して増産をはかり年産一五〇トン以上にのぼった。その品質産額ともに本邦第一の称があったが、昭和二十八年夏、濃縮果汁製造一本に転換した。現代も直系の酒井教授が癌の治療薬で活躍されて湯浅町ふるさと納税NO.1と聞いてます。
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左に見えてる橋が北橋かと・・・・今も広大な敷地にお屋敷あります
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加納さんが醸造を伝えてくれたおかげで 伝建地区に選定されたと言っても過言では有りません。 佇まいも今と殆ど変わってませんね。因みに角長さん裏の『大仙堀』は 大工の仙吉?が船を繋いだのか?堀をつくって?が始まりらしいです。
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湯浅では超有名だった醸造所です。ちょっと漆喰壁が板になってますが!
奥に見える屋根が現在は大本教になってるかな?大本教の建屋だけでも当時の豪商ぶりが想像できますよね。 赤桐家は特にトップクラスで『大船一艘代々相伝』の秀吉からの書状や明治初期の吉原の話も有ります。又紹介します。
この建屋は伝建で修復されて残ってます
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『いずき』さんですよ〜!この家の場所は北新屋敷かな?
現代も北浦理髪店さんから東へ入った所に建屋が残っています。後の2枚は南新屋敷で製氷会社をされてました。写真は30年ぐらい前の新しいものですが今は無くなり寂しい限りですね〜覚えてますか??浜の近くは漁業関連のものが多いですよ
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この辺りからボチボチむつかしくなってきますね。場所はカネ七さん前の小路を新屋敷へ抜ける右側に有ったと思います。
この建物は凄くカッコいいですね屋根の形も禅寺院みたいで平瓦に丸瓦の本瓦葺きですが左側の軒瓦が桟瓦葺きに修理されてますね。
この次の漁協は記憶ありますがこれは覚えている人はいらっしゃるのか?? 90代ぐらいの人に尋ねてみないと何とも・・・
筆者は好きな造形の建屋ですね。
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大阪商船株式会社湯浅扱店という看板が印象的ですね。
物品を運ぶ運送業?? 商品を扱う商社??
場所は新屋敷と蔵町の四つ角なんです。あま美の向かい!
籔野石油さんの西の角の建物です。
筆者62歳ですが子供の時近くに住んでまして岩崎さん!!シラスや干物・イリコなんか売ってたような記憶が・・昭和40年代ですが・・建屋は当時もかなり古くこの建屋の記憶もあります。土間はレンガ造り・・記憶違いはご容赦を・・
追記 汽船寄港時代 湯浅港に汽船の定期寄港を開始したのは、明治二十年ごろである。それから国鉄紀勢線の湯浅駅開通にいたるまで約四十年間、湯浅は有田郡における唯一の旅客貨物の出入港であった。その初期においては串本の神田商会(後に神田汽船会社) 名古屋の熱田共立汽船会社の定期寄港があり、後には大阪商船会社が代わって大阪名古屋間の定期航路権を握った。しかるに昭和二年国鉄湯浅駅の開業とともに、海上の交通運輸はその大部分を陸運に転換するに至った。 【大阪商船株式会社】 大阪商船株式会社は明治十六年に創設され、開業したのは翌十七年五月であった。開業当初は十八本線の航路を開設したが、その第十七本線たる大阪和歌山線には第一益丸(一一〇屯)和歌浦丸(一三〇屯)の二隻を配船し、明治三十一年四月ごろには紀伊川丸(二一五屯) 紀州丸(屯数不明)が就航したが、翌三十二年二月航路を田辺まで延長して、大阪田辺線と改称した。 すなわち兵庫・和歌山・湯浅・比井・御坊に寄港した。同年十二月に至って更に三輪崎まで延航して、大阪三輪崎線と改称し最終的には明治三十三年大阪商船は共立汽船を買収して、大阪名古屋線【大阪熱田線】に至った 。
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ここから3つも現在でも基本的に当時の建屋が残っています。
来町の際は伝建地区にも近いので是非ご覧ください。
ガイドさんもコースに・・・
当主が立ち飲み屋さんをしているので一杯ひっかけに・・・
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明治時代は湯浅の主要産業 製網業で
筆者の子供の時の記憶では油屋店をされていたような
この建屋も残っております。
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大三さんです。湯浅で一番古い一子相伝の金山寺味噌!!
建屋は江戸時代 漫画の北斗神拳みたいなものと考えたらわかりやすいと思います。30年ぐらい前に井沢元彦氏が来町された時にこれが古式の径山寺味噌だとおっしゃってました。歴史から紐解いても一丁目一番地で保存して欲しい建屋です。
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ここは年輩の方は記憶有るでしょうね~私も覚えています。
湯信の場所って書いたら解るかな?? その前は『三和銀行』でしたね。思い出しましたか??
50年ぐらい前は沢山の銀行が有りましたよ。
写真は昭和5年での加工です。
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勇ましい男衆が店頭に・・・・
タナベセンターって書いたらわかりますかね??
30年ぐらい前にコーヒーの量り売りをしていて良く買いにいきました。現在この建屋は無いですが
筆者の子供の頃は酒とスーパーやってました。
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これは江戸か??という個性的な建屋と店名(ガラクタ)ですね。
そまの薬局さんの前身ですね。
何を売っていたのでしょうね??元の写真では船のイカリを置いてますね。軒の幕板が湯浅の家屋の特徴とか言いますが確かに幕板貼ってますね。無くなってるのが勿体ないと・・・
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説明が要らないぐらい有名かと思います。間口も広く典型的な商家です。やはり明治後期か大正の建屋でしょうか?とても綺麗ですね。
二階は板張りになっていますが、本来は漆喰だったと思います。昭和に建て替えられ、筆者が大人になっても傘は『さんどがさや』に買いに行きました。懐かしいですね。『傘製造元』と書いてあります。
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元塩崎理髪店さんの隣、なかよし電気さんの駐車場の辺りとの事ですが、筆者には全く分かりません。昭和5年当時の写真ですが、どなたか記憶ありますか?
看板には【諸板商】と書いてありますね。木材の加工品、板などを扱っていたのでしょうか?今で言うフローリングや建築資材のようなものでしょうか?戦前は帽子を被って、皆さんカッコいいですよね。追記でシラスの木箱を作っていたとのコメント頂きました。