有田郡 湯浅案内 昭和五年発行Ⅱ

(西邑幸氏所蔵より抜粋・掲載)

【筆者箸休め】

古いモノクロ写真をAIでカラー化し、**「湯浅保存版」**として新シリーズ第Ⅱ弾です。

16から30までの15件掲載しています。第一弾と併せて宜しくお願い致します。全73件あります。16.『小浦茂兵衛商店』17.『岩上製靴店』18.『濱口金網工場』 19.『南海水力電気株式会社 湯浅出張所』 20.『湯浅醤油株式会社』21.『有田高等女学校』22.『平林組』23.『橋爪商店』24.『不動銀行湯浅支店』25.『有田郡農会』26.『日の出食堂』27.『一二三』28.『紀伊湯浅駅』29.『和歌山無線株式会社湯浅支店』 30.『満願寺』

(元の写真もアップロードしています。形や色が不自然な点は生成AIのシステムと現在の限界です。プロンプトを工夫し、何度も手直ししましたが、素人作業ゆえご容赦ください!)

撮影された時代から考えると、写っている建屋は古いもので**江戸時代後期**、ほとんどが**明治〜大正期**のものと考えて間違いないでしょう。つまり、これらは**伝統的建築物保存物件の基本構造**を内包していると言えます。新たな視点での気づきや学びがあります。

読者の皆様も「このお店は知っている」「あそこにあったのか」「もしかして、自分の家だ!」といった発見を楽しんでいただけたら幸いです。

町外の方も、昔の湯浅にこれほど多くの店があったことに驚かれると思います。各店舗の解説は、筆者一人の記憶に基づいているため、間違いも多いかと思います。ぜひご指摘いただき、皆さんと一緒にこの貴重な記録を作り上げていければ嬉しいです。

16.『小浦茂兵衛商店』大宮通り

小浦茂兵衛商店(AIカラー化) 小浦茂兵衛商店(モノクロ)

写真:16oura.png

ここも説明いらないかな? 通称おうらまん!! 米国スタンダード石油代理店って看板に!! 詳しくは元写真の看板文字を見て欲しいのですが・・・ ワシ印洋ローソク 荒物各種 石鹸 乾物 諸油・・・ 桃マッチ・木材防腐剤コールタン 魚網 卸商 小浦茂兵衛商店 で屋号のマークが万!! わかりやすくてカッコいい 湯浅のここから明治に小浦石油商会として創業. 昭和23年, 丸善石油株式会社特約店になって大協石油と合併して『コスモ』になったんやったけ?? 筆者が子供の頃はこの場所に会社がありました。(まるみ板金さんの前あたり)『オー!!モーレツ』ってCM有りましたね。

17.『岩上製靴店』 大宮通り

岩上製靴店(AIカラー化) 岩上製靴店(モノクロ)

写真:17iwagami.png

左大正・昭和初期の佇まいですね。場所は杉谷ガラスさん北、寺井時計店とその隣・・ 看板が面白いですね。(元の写真参照) 靴製造 販売 修繕 左の看板は馬のマークがあって 鞄 袋物 馬道具付属品って書いてますね。エルメスかって・・・投稿のコメントに子孫の方と向かいに居住されていた方からお頼り頂いて解決しました。

18.『濱口金網工場』大宮通り

濱口金網工場(AIカラー化) 濱口金網工場(モノクロ)

写真:18hamaguchi.png

通称金網(かなあみ)!! 場所は旧熊岡のタバコ屋と石吉石材店の小路を東に入った所になります。 筆者は建屋は勿論知りませんが個人的に色々知っています。 沿革は置いといて海外輸出も含めてかなり手広くされてた会社ですが朝鮮戦争で海外へ送った商品の入金がアウトになり大損害を受けたと聞いています。湯浅小学校の講堂横の建物に日本猿の剥製や明治大正の骨董品が数多く保管されてたのを覚えてないですか?? 私が子供の時見た記憶があります。この多くは「木下実社長家」から寄贈されたもので一部は現在も甚風呂で展示していると思います(甚風呂開館の際に小学校から美品を持ってきたと思う) 建屋としては『野麦峠』や『犬神家の一族』へ出てくるようなイメージでなかなか渋いですね。写真の建屋はもう無いですが、経営者が代わってエレハント金網工場として昭和50年代まで稼働していたと記憶しています。

19.『南海水力電気株式会社 湯浅出張所』大宮通り

南海水力電気株式会社 湯浅出張所(AIカラー化) 南海水力電気株式会社 湯浅出張所(モノクロ)

写真:19nankai.png

場所で言うと労金の前あたりになるようですが・・・・ 現美容院の有った辺りに何か関電の関連会社みたいなレンガの弊や建屋が有ったような記憶も・・・・曖昧ですね💦 元の写真を参考にもして欲しいのですが・・・ 水力発電の会社なのでしょうか?? 情報ございましたら宜しくお願いします。

20.『湯浅醤油株式会社』大宮通り

湯浅醤油株式会社(AIカラー化) 湯浅醤油株式会社(モノクロ)

写真:20yuasasoyi.png

以前も紹介しましたがコメント欄へ別の写真も入れておきます 江戸時代に紀州藩の保護政策で栄えた醤油業も、大正時代には個人経営では先細り、不況の時代を迎えました。そのため、大正11年に久保、赤桐、玄後といった醸造家らが出資し、生産力と販売量を増やすために県下一の工場を「馬止」(耐久高校の西あたりでしょうか?)に設立しました。マークは亀甲(キッコウ)ですね。亀甲王!うまくいっていたら、世界の**キッコーオー**になっていたかもしれませんね。

21.『有田高等女学校』東南道

有田高等女学校(AIカラー化) 有田高等女学校(モノクロ)

写真:21aradakojo.png

こちらも以前紹介した有田高等女学校です。場所は今の耐久高校です。前はケシ畑?? 和歌山県立有田高等女学校は、当初、有田郡立高等女学校として、大正八年(一九一九)五月、湯浅字高岸において第一期工事竣成を待って開校された。翌年の新学年には、教育科および園芸科を加設し、翌一〇年四月、第二期工事を竣成し、講堂、作法室、割烹室、洗濯室、寄宿室など全工事が完成した。一一年四月、県の移管となって、和歌山県立有田高等女学校と改称する。戦後学制改革にこの有田高女と広に所在の県立耐久中学校と合併して県立耐久高等学校となったとき、有田高女の場所がそれに充当され今日に至っている。しかし、校舎その他の建造物は、その後改築され、昔とまったく景観を異にしている。。

22.『平林組』西南道

平林組(AIカラー化) 平林組(モノクロ)

写真:22hirabayashi.png

現在も伝建家屋の修復を手広く施工されてる平林さんですね。 本宅は蔵町ですが写真は湯浅小学校の給食センター近くの工場の場所だと思いますが本人に聞くのが一番でしょう。 沢山の材木ですね~

23.『橋爪商店』 旭町角

橋爪商店(AIカラー化) 橋爪商店(モノクロ)

写真:23hashizune.png

昔の名前で出ています💦 本町ですね。本町の四つ角・・ 古田商店さんの前・・昔八百屋と違ったかな?? (古田さんの建屋自体 保存して欲しい物件ですね。壁は銅板貼ってるし漆喰仕上げの窓に格子) 筆者の記憶曖昧です。建屋はグーグルマップで見ると残ってる感じもします。改装はしていますが・・どちらかと言うと昭和レトロなお店ですね。乾物・荒物・雑貨・タバコ・・・何でもござれ

24.『不動銀行湯浅支店』 南栄

不動銀行湯浅支店(AIカラー化) 不動銀行湯浅支店(モノクロ) 不動銀行湯浅支店(AIカラー化) 不動銀行湯浅支店(モノクロ)

写真:24fudou.png

場所は元和歌山銀行の所か?プチプルのあたり・・・ 素晴らしい建築ですよね。湯浅は商都で銀行が多かったのですよ。以下説明文です。 ◆不動貯金銀行湯浅支店(和歌山県、大正7年ころ築)・・・・・現存せず  〔※A〕 和歌山市の南約20キロの場所にある湯浅町に大正9(1920)年に開業したのが、この湯浅支店だった。また当時不動貯金銀行は代理店として開業し、営業成績が順調だと支店に昇格させるシステムを取っていたので、この店舗は1~2年前の竣工と考えられる。どちらかというとシンプルなデザインですが、当時の関根らしさも垣間見える作品です。 なおこの同時期に竣工した、同銀行の和歌山支店はユーゲントシュティール調の華やかな作品となったが、その設計は日本勧業会社の同僚・鈴木憲太郎が担当している。

25.『有田郡農会』南栄

有田郡農会(AIカラー化) 有田郡農会(モノクロ)

写真:25aridagunnookai.png

場所は日本生命の辺り・・・元内藤証券の所かな? 元和歌山銀行の前と言えば解るかな?? ちょっとAIの入口雑草の処理が気になりますが・・・ 簡単書いたら農協(試験場)の前身みたいなものですね。 有田郡農会(ありだぐんのうかい)は、明治時代から昭和初期にかけて和歌山県有田郡に存在した農業団体です。現在の農協組織とは異なりますが、地域農業の発展に貢献しました。 有田郡農会の歴史と役割 設立: 1900年(明治33年)に設立されました。 活動: 有田みかんの産地として全国的に発展するにつれ、試験研究機関の設置が必要となり、明治43年には農会立の園芸試験場を設立しました。 功績: 大正時代には農学士の朝倉金彦を試験場長に招き、近代科学的な栽培技術を普及させました。 その後: この園芸試験場は、その後県立に移管され、現在の和歌山県果樹試験場へとつながっています。

26.『日の出食堂』 駅前南栄

日の出食堂(AIカラー化) 日の出食堂(モノクロ)

写真:26hinode.png

場所は今のドンキーさんの所らしいです。(みつる)さん 昭和初期の【カフェ】って感じですが食堂ですね。レストランかな?? おしゃれです。右端の男性はCKBの横山剣さんのようで、かっこいいですね。 AIは漢字を上手く描けません(文字化け)が原画から・・抜粋 ユニオンビール 和洋御料理日の出  お旅館は日の出屋本店 日の出食堂麺類 って文字が垣間見れます。コメントに写真の紳士が私の母方の曽祖父とのお便りいただきました。

27.『一二三』 駅前 

一二三食堂(AIカラー化) 一二三食堂(モノクロ)

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懐かしいですね~湯浅駅前で一二三を知らない人は居ないぐらい有名かと思います。筆者学生時代はこの建屋では有りませんでしたが一二三食堂と一二三旅館をされてましたね。 隣が栗山商店さんと北隣がシャルムさん・・・ 小路挟んで若野商店・自転車預かり店・有交にスナック「テル」照国屋・・・ もう面影なし 中食って今のデリバリーの事やね(出前)てんやもんって事ね(^^) 看板も 中食御支度所一二三食堂 湯浅名産 金山寺味噌 ユニオンビール 簡易食堂一二三 〇〇一式 そば ユニオンビール 日本麦酒鑛泉より承継。川口・半田・西宮工場で製造し、全国で販売していた。飲料店向けに「特製ユニオン生ビール」も製造販売していた。トレードマークは収穫の女神。アサヒビールが承継し、戦後も輸出用として一時期製造されていた。飲んでみたかった。

28.『紀伊湯浅駅』

紀伊湯浅駅(AIカラー化) 紀伊湯浅駅(モノクロ)

写真:28kiiyuasaeki.png

説明は要らないと思いますが昭和2年に開通した湯浅駅です。 生成AIはすごいと思います。1枚の写真でここまで再現?出来るのは・・・AIが学習して成長していく感じですね。私のクセや意図がわかってくる感じで・・賢いわ~ 『ふーんAIでやってるん?』という人もいますが💦💦そんなに簡単にいきませんよ。 世の中にPC出始めてから全部デジタルやん!!って思いますよね。図面でも写真でも・・・(^^) 文章でもイラストでも・・ 手書きで色付つるんやったら蔦屋で版画でも刷って貰わんと・・ 現代の湯浅駅もこの写真をモチーフにしてCGバースで再現して設計したんかと思う(もっと何枚も写真は有るでしょうが) 車も人もおしゃれですし右の白い屋根の建物は何でしょうね? 発券所かな? 売店かねた?? 筆者は昭和40年~60年代ぐらいの駅のイメージは公衆電話が有りましたよね。(有交のタクシーが何台も止まって) 最初は10円、その後100円硬貨が使えるようになり、最後はテレフォンカードでしたね。そんなの覚えてますね。入って左に乗車券売り場(駅員さん直接)切符切ってもらって乗車って感じでしたね。右が売店で色々売ってました。ワリと文庫本やコミック漫画を買ったような記憶有り・・・

29.『和歌山無線株式会社湯浅支店』 中川原

和歌山無線株式会社湯浅支店(AIカラー化) 和歌山無線株式会社湯浅支店(モノクロ)

写真:29wakayamamusen.png

ここは筆者は記憶に無いですね~ 船の無線通信の会社なのでしょうか?? 当時としては商家は勿論 工場・会社・銀行・官公庁・花街と圧倒的に近隣と比較して多いのが湯浅の特徴ですね。 写真の建屋は典型的な大正時代の建築ですね。 今の湯浅の伝建修理はこの格好が一番多いですね。 一階が目板張りが多いですが・・・ 場所は駅から降りていってロワール(喫茶店)のところですね 【かどや食堂】さんの斜め向かいです。コメント欄に地図(S40年代)を貼っておきます。『統計調査事務所』って書いてます。 情報があれば是非教えてください。「かどや食堂」さんから子供の頃 二階で遊んだ記憶有り食糧事務所でしたとコメント頂きました。

30.『満願寺』中川原

満願寺(AIカラー化) 満願寺(モノクロ) 満願寺(AIカラー化) 満願寺(モノクロ)

写真:30manganji.png

湯浅を代表する高野山系の真言密教系の寺院です。現在は建て替えられていますので以前の本堂でしょうかね どなたか記憶ありますか?満願寺山 白樫城と湯浅の歴史には重要な寺院です

満願寺(護国山)真言宗古義

所在地 湯浅城山一三三四番地

沿革

建立年代は不詳であるが、伝説には後白河院の勅願所だと言うから、平安時代末の草創だろう。同寺は後に丘陵を負い、西と南とは平地に臨んで、景勝の地を占め、 往時に旧熊野街道は沿い、寂楽寺(後の勝楽寺)とともに、湯浅地方では草創の最も古いものである。両寺の坊舎合わせて三十六坊を持った伽藍地であったが、後退転した。高城城主畠山尙順の家臣白樫氏その廃墟に移り住み、高城陥落後はここに築城した。天正十三年豊臣秀吉紀州南征の時、白樫氏これに応じて勲功があったので、有田その他において五千石の領地を与えられた。白樫氏没落後 寛文十二年(一六七二)にいたって、宇田の山伏不動院またその跡に堂宇を再建して、旧名満願寺を寺号として、同寺を継承することになったという。 今地勢を案ずるに、往古は同寺の南から西南にかけては那耆の入江で、付近一帯はいわゆる入江松原の景勝地であったが、その後広川流域沖積平地の拡大と、湯浅、広両市街地の発達とともに、面目を一変してしまった。